夢判断
- 「どうぞ」
- 看護婦の声にうながされて診察室へ入って来た青年は、細い銀ぶちの眼鏡を掛けていた。
- ドクトルは膝頭だけを患者のほうへ廻して机の上のカルテを見た。
- 川北秀樹、二十二歳、T大学四年生と記してある。
- 青年は丸椅子に腰をおろし、二度三度神経質そうに瞼をしばたたいた。
- 「T大学の、学部はどちらですか」
- 「経済学部に籍を置いております」
- 「ほう。エリート・コースですな」
- 「いえ、それほどのこともありません」
- 青年は少しはにかむように笑って打ち消したが、含むような笑顔はきっしてドクトルの言葉を否定していなかった。
- 「今は就職試験の真っ最中でしょう?」
- 「はい」
- 「どちらをお受けにになりましたか」
- 「まあ、一応、M海上火災保険のほうを」
- 「なるほど。
- これも名門ですな。
- 試験のほうはいかがでした?」
- 「はい。なんとか。あとは採用の通知を待つだけです。」
- 自信が鼻の先にぶらちさがっている。
- 「それは結構」
- ドクトルは曖昧に頷きながらもう一度カルテを眺め直した。
- 毎年この季節になると、きまって何人かの学生が精神科の相談室にやって来る。
- 成績優秀であるにもかかわらず、卒業してから自分が実社会に適応できるかどうか不安になって来るものらしい。
- それが昂じてノイローゼになったりする。
- まだ就職もしない先からあれこれ思い悩んでみても埒があくまいと思うのだが、野獣の中で一番賢いチンパンジーが一番臆病であるのと同様に、秀才であればあるほど先々のことまで心配して気に病んでしまうのだろう。
- この青年もそんな悩みを待っているのではあるまいか、ドクトルはそう考えてみた。
- しかし、予診カルテの“相談内容”には“夢の予見性について”と、なんだか訳のよくわからない文字が並んでいる。
- ドクトルは青年の真正面に顔を廻して尋ねた。
- 「さて、どんなご相談でしょうか」
- 「はい。実は警察へ行こうか病院へ行こうか大分迷ったんですが、警察へ行ったところで相手にされないような気もするし・・・・・それで、とりあえず先にこちらへうかがって専門家のご意見を教えていただこうと思ったわけなんです」
- 「ほう」
- 「話は少し長くなりますが、よろしいでしょうか」
- 「どうぞ」
- 「私がアルバイトで家庭教師をしている家にN君という男の子がいます。
- 小学五年生で、とても頭のいい子どもなんです。
- 学校の成績も一番だし、教えたこともよく理解する。
- 性質もいいからボクもすっかり好きになってしまって・・・・・」
- 「そのお子さんのことで相談にいらしたんですか」
- 「いえ、そうでもないんです。
- なんて言ったらいいのかな。
- とにかくこんなに賢い子なら将来どうなるかな、ってボク自身も楽しみにしているんですけれど、つい、このあいだ、この子の学校で野外教室って言うんですか、一週間ほど田舎の民家に分宿して東京では味わえない自然の生活を経験する、そういうカリキュラムが始まりました」
- 「結構ですな」
- 「行き先はS県の渋木村というところで、その名前を聞いたときボクはなんだか前に聞いたことがあるなと思いましたが、その時は気がつきませんでした。
- ところが、そのあとで奇妙な夢を見たわけなんですね」
- 「どんな夢ですか?」
- 「はい。それがボクのご相談したいことなんですけれど、先生、人間は夢の中で将来起こることを予見できるものでしょうか」
- 「さあ、それはむつかしい問題ですな。
- 伝説ではトロイのカッサンドラはトロイ落城の夢を何度も見たというし・・・・・そう、たしかケネディの秘書官も大統領暗殺の夢を見ている。
- 夢そのものが得体の知れないものですからな」
- 「ボクの場合は子どものときから、ときどき赤い色の夢を見るんです。
- すると、その夢がかならず実現されるんですね」
- 「ほう?」
- 「いろいろありましたけど、たとえば中学生の頃のことですが、ボクが公園に遊びに行くと、女の子がいとりポツンと立っていました。
- よく顔を見ると同じクラスの子なんです。
- “一緒に遊ぼう”と言ったら“勉強するから駄目だ”って・・・・・。
- “勉強するんなら家に帰ってやればいいじゃないか”って、ボクが言うと“あたし、ブランコに乗りながら勉強するんだから見てちゃ厭。帰ってよ”って、すごい顔をして睨むんです。
- それでボクが帰るふりをして木の陰から見ていたら、その子はブランコに乗ってユラユラ揺れていました。
- 夢に見たのはそれだきのことだったんですが・・・・・」
- 「それで?」
- 「それから二日たって、その女の子が学校の裏で首吊り自殺をしました。
- 見に行ったら、本当にブランコにでも乗っているみたいに桜の枝でユラユラ揺れていました。
- 彼女は家に帰るとお母さんに“勉強しろ、勉強しろ”ってうるさく言われるものだから、それが厭になって死んだんです。
- 夢に見たのは間違いなくその女の子だったし、彼女が“ブランコに乗りながら勉強する”って言ってたのも自殺の原因と関係があるような気がして、とても不思議に思いました」
- しかし、どうですかな。
- ブランコと首吊りとでは結果的にいくらか様子が似ているかもしれませんが、ブランコの夢を見たからといって首吊りを予見したことにはならないのと違いますか。
- たまたま枝からぶらさがった感じが似ているものだから、数日前の夢をそこに結びつけて考えた、そう解釈することもできるでしょう」
- 「はい。
- この場合はそうとも言えます。
- しかし高校三年の時には、ボクがなにかを食べようと思って冷蔵庫をあけたんです。
- すると中に友だちのT君が入っていて“寒い、寒い”って言うんです。
- 寒いわけなんですね、全身カチンカチンに凍っているんですから」
- 「それも赤い夢だったんですね」
- 「はい。
- 眼が醒めてからも夕焼けみたいな冷蔵庫の色がはっきり瞼の裏に残っていました」
- 「お友だちはどうなりました?」
- 「その翌日、彼が雪山で遭難したニュースを聞きました。
- 彼とはしばらく会っていなかったし、もちろん山に行ったことなんかぜんぜん知りませんでした。
- むしろ夢を見たあとで“なんであいつが夢になんか出て来たのか な”って、不思議に思ったくらいなんですから」
- 「彼が山好きなのは知っていたんでしょ」
- 「はい」
- 「それじゃあ冬山の季節がやって来て、あなたが心のどこか片隅で山登りの好きな彼を思い出してたじゃないですか。
- 自分では明確に意識しないけれど、山登りのポスターかなにかを見てその友だちのことを連想してたってことが・・・・・」
- 「だけど彼は夢で見た通りに凍死したんですよ」
- 「ええ、でも冬山に登る話を聞けば、だれだって凍死のこと考えますよ。
- その連想が、身近かにある冷蔵庫と結びついてあなたにおかしな夢を見させ、そのあと偶然彼が遭難したと、そういうこともありうるでしょ」
- 「ええ。そうかもしれませんが・・・・・。大学一年のときにもありました」
- 「話してごらんなさい」
- 「やっぱり赤い夢なんですが、登ったこともない富士山に一生懸命登っているんですね。
- ところがその富士山がものすごく汚れている。
- 赤土ばっかりの禿げ山で、あっちこっちに空き壜や弁当箱が捨ててある。
- “ああ、富士山て遠く見るときれいだけど近くで見るとひどいんだな”って、夢の中でしみじみ思ったのを覚えています」
- 「そのあとなにが起きました?」
- 「はい。
- その頃憧れていた女性がいたんですが、ちょっとしたきっかけから彼女の醜い面がいろいろわかってしまって。
- 夢を見た二日あとのことです」
- 「なるほど」
- ドクトルは訳知りの和尚みたいにやんわりと頬笑んで青年の顔を見据えた。
- 「そこまで行くと果して夢で未来を予見したことになるかどうか・・・・・ね、そうでしょ。
- 富士山と憧れの女性とを結びつけるのは、やっぱりこじつけでしょ。
- あなたは赤い色の夢を見ると、かならず近い将来にそれとよく似たことが起きると考えている。
- そこへ汚い富士山の夢を見て、すぐあとに憧れの女性の醜い面を知ることとなった。
- あなたとしては、その二つを結びつけて考えたくなるのはわかりますが、常識的に判断すればただのこじつけですよ、これは」
- 「そうでしょうか。
- ほかにも太い煙突がポキンと折れる夢を見たあとで父が足を骨折しましたし、蟻の穴に火をつけてる夢を見たあとで地下鉄の火事にあったり・・・・・赤い夢を見るといつもなにかしらよくないことが起きるんです」
- 「それで、最近また赤い色の夢を見たんですね」
- 「そうなんです。
- 昨日の朝見ました。
- 男の子が出て来ました。
- なんでもよく知っている子どもで、むつかしい漢字でも数学の公式でも自動販売機みたいにどんどん答を出すんですね。
- どころが周囲の大人たちの様子がどうもおかしい。
- みんなで首を集めてチラチラ男の子のことを横目で見ているんです。
- そのうちに相談がまとまったらしく輪が解けたかと思うと代表者みたいな人がスタスタ男の子のところへ近づいて来て崖から突き落としました」
- 「どうしてかな」
- 「ボクも始めのうちはよくわかりませんでした。
- でも、しばらくして、その夢の男の子がさっきお話したN君、家庭教師で教えている子どものような気がして来ました」
- 「ああ、とても頭のいい子。
- 田舎の野外教室へ行くとか言っていた・・・・・」
- 「そうです。
- そう思ったとたんボクは大変なことを思い出しました」
- 「なんです?」
- 「N君が行くと言っていたS県の渋木村、あそこは厭な伝説のあるところなんですね。
- 伝説と言ってもただの昔話なんかじゃありません。
- 私の恩師に江戸時代の地方法制史を研究されている方がいらして、この先生からお聞きしたんですが、封建時代の農民たちのあいだでは、神童と呼ばれるほどの天才が現れるのをあまり歓迎しない風潮がたしかにあったんですね」
- 「ほほう」
- 「封建時代の農民というのは、野心も抱かず異端も唱えずみんなが為政者の言うことを“はい、はい”って素直に聞いていればそれでいい。
- そういう時代だったわけでしょう。
- なまじ頭のいいやつが現れると、なにか変革を起こそうとする。
- これが世を乱す原因となる、そう考えたんですね」
- 「そんなこともあったかもしれませんな」
- ドクトルは両手の指先を胸もとで思案深そうに合わせて頷いた。
- 「そうなんです。
- それで、S県の渋木村、N君が今行っているところですが、あの地方は江戸時代に三度も農民一揆を起こしてます。
- 宝暦と嘉永と・・・・・もう一つは忘れましたけど。
- いずれも百姓の中に賢い男が現れて、それがみんなを煽動して反逆を起こしたケースなんですね。
- ところが一揆はつぶされ、百姓たちはひどい目にあいました。
- 何人もの百姓が杵で頭をグチャグチャにされ、役人のしめつけは一層きびしくなりました。
- それ以来あのへんでは、頭のいい子が出ると、将来ろくなことがないと考えて殺してしまう、そういう掟ができたんです」
- 「驚きましたな」
- 「でもこれは本当のことです。
- 江戸時代の地方史は史料的にまだまだ暗い部分がたくさんあるんですけれど、同じようなケースは全国にいろいろ散らばっているじゃないでしょうか。
- いったん風土に根をおろした慣習は明治に入ってもそう簡単に払拭することができず、渋木村では頭のいい子が生まれるとけっして歓迎しない伝統がしばらく残っていたそうです」
- 「まさか殺したわきじゃないでしょう?」
- 「でも村ぐるみでそういう考えを持っていたら、殺人がおこなわれたって外部にはわかりゃしません。
- 今でも閉鎖的な山村にそんな考えが残っているとしたら・・・・・」
- 「あなた、まさかそのN君という少年が・・・・・」
- 「いえ、そうなんです。
- N君の話では一クラス三十人の生徒がバラバラに分かれて村のそれぞれの家に泊まるというんですね。
- 村の中にいまだに昔の考えを捨てきれずにいる人がいて、運わるくそんな家にN君が行かないとは限れません。
- N君の賢いことは、すぐにわかりますしね。
- だから“こういう子どもが大きくなると、またこの村に戻って来てなにをするかわからない”なんて考える人がいて・・・・・」
- 「まさか」
- 「ボクだってまさかと思います。
- 江戸時代の風習がトータルとしてそのまま現代に残っているとは思いません。
- ただ、一人二人狂信的に信じ続けている人がいるかもしれないし、なにしろ赤い夢のことがあるものですから・・・・・。
- 先生はお信じにならないかもしれませんが、赤い夢は本当にその通り現実となって起こるんです。
- その夢の中で子どもが崖から空き落とされ、N君は三日前からおそろしい伝説のある村へ行っているんです。
- ボクにはどうしても偶然の一致とは思えません」
- 青年は熱っぼくまくし立てた。
- 「それで私になにをしろとおっしゃるんです?」
- 「ですから夢の予見性について先生のご意見をおうかがいしたいんです。
- 心理テストのようなものがあるなら、ぜひ私にやってみてください。
- もしボクの赤い夢が多少なりとも学問的に根拠のあるものならば、ボクはこれからN君のご両親と相談して警察へ行きます。
- 先生にもお口添えをしていただきたいと思います。
- さもないと、ボクは警察で気ちがい扱いをされてしまいますから・・・・・」
- 「ブン、ブン」
- ドクトルは機械仕掛けのように首を上下に揺すった。
- 眼の前にいる青年は、学業成績は優秀かもしれないが、いくぶん常軌を逸していつようにも思えた。
- 今まで見た夢がいくら現実と一致しているからといって、そこまで気を廻すのは飛躍があり過ぎる。
- 「いかがでしょうか」
- 「そうですな。
- 結輪から先に申し上げれば、なんの心配もないでしょう。
- 赤い夢は神経が過敏になっている証拠です。
- それだけのことですよ。
- いわゆる正夢というものもけっしてないことではありませんが、これは本人もそれと気づかないまま心の奥底で考えていることが夢に現われ、それが確率的に適中する、そういうケースがほとんどなんですね。
- あなたがご覧になった赤い夢もそう解釈できますし、あとから無理にこじつけたものもありますね。
- まあ、夢が脈絡のない未来を予見する例も皆無とは言えませんが、それをこの場合に当てはめて考える必要はありません。
- 頭がいいからという理由だけで、集団旅行の小学生が村人に殺されるなんて、どう考えてみても現代では唐空過ぎます。
- そんな殺人は首吊り自殺や雪山の遭難とちがって、もともとありえないことなんですから。
- ご心配なく。
- 私が保証します」
- 「そうですか」
- ドクトルは、それからもう一度青年の心のわだかまりを解くように大きく笑ってから、「それよりあなたご自身赤い夢のことなんかお忘れになったほうがよろしいでしょう。
- 私どもの前ではなにをお話になってもかまいませんが、世間ではあなたのお話を正当に理解しない人も大勢いましょうからね。
- まして警察沙汰になんかしたりすると、あなたご自身就職を前にして今は大切な時期でしょう。
- 人騒がせはなさらないほうがおためです。
- 気になさらないことです。
- 大丈夫N君は元気よく帰って来ますから。
- いいですね」
- 「ええ」
- 「よろしいですな」
- 「はい」
- 「またなにか気になることがあったらいつでも気軽に相談にいらっしゃい」
- 「はい」
- 川北青年はまだいくらか釈然としない様子だったが、それでもドクトルにうながされて席を立った。
- 「では、どうぞ」
- 「ありがとうございます」
- ドクトルはそのうしろ姿を見送ながら小首を振り、それから川北秀樹と記したカルテをポンと整理棚のほうへ投げ込んだ。
- それから二日たってN君はドクトルの言葉通り元気な姿で渋木村の野外教室から帰って来た。
- 両手に龍いっぱいの柿の実や栗の実をぶらさげて。
- 「みんなとても親切だったよ。
- 本に書いてないことたくさん習っちゃった」
- そんな無邪気な様子を見て川北青年は安堵の胸を撫でおろした。
- 冷静になって考えてみれば、今どき封建時代の愚かな風習が残っているはずがないではないか。
- 夢の予見性なんて馬鹿らしくて話にもならない。
- いや、そうでもないのかな。
- 同じ頃、M海上火災保険株式会社の会議室で社長がおもむろに結輪を下ろしていた。
- 「これまでの実績から判断して、あまりにも成績のいい学生は、協調性を欠いたりえ常軌を逸したりして、サラリーマンとして不適格な場合が多い。
- 試験成績の一番から三番までの学生は社長判断で無条件に採用を見送りたい。
- まず一番の、川北秀樹君・・・・・」
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