虫のいろいろ
- 晩秋のある日、陽ざしの明るい午後だったが、ラジオが洋楽をやり出すと間もなく、部屋の隅から一匹の蜘蛛が出て来て、壁面でおかしな挙動を始めたことがある。
- 今、四年目に入っている私の病気も、一進一退というのが、どうやら、進の方が優勢らしく、春は春、秋は秋と、年毎の比較が、どうも香ばしくない。
- 目立たぬままに次第弱りというのかも知れないが、それはとにかく、一日の大半を横になって、珍しくもない八畳の、二三ヵ所雨のしみある天井を、まじまじと眺めている時間が多いこの頃である。
- もう寒いから、羽虫の類は見えないが、蠅共はその米杉の天井板にしがみついていて、陽のさす間は、縁側や畳に下りてあっちこっちしている。
- 私の顔なんかにもたかって、うるさい。
- 蠅の他に天井や壁で見かけるのは、蜘蛛である。
- 灰色で、薄斑のある大きな蜘蛛だ。
- 左右の足を張ると、障子のひとこまの、狭い方からはみ出すほどの大きな蜘蛛だ。
- それが何でもこの八畳のどこかに、二三匹はひそんでいるらしい。
- 一度に二三匹出て来たことはないのだが、慣れた私の目には、あ、これはあいつだ、と、その違いがすぐ判る。
- 壁面でおかしな挙動を見せた奴は、中で一番小さいかと思われる一匹だった。
- レコードの、「チゴイネルワイゼン」―――昔、私も持っていたことのあるヴィクターの、ハイフェッツ演奏の赤の大盤に違いなく、鳴り出すと私には直ぐそれと判ったから、何か考えていたことを放り出し、耳は自然とその派手なセン律を迎える準備をした。
- やがて、ぼんやり放っていた視線の中に、するすると何かが出て来たが、それが蜘蛛で、壁の角からするすると一尺ほど出て来たと思うと、ちょっと立止った。
- 見るともなく見ていると、そいつが、長い足を一本一本ゆっくりと動かして、いくらか弾みのついた恰好で壁面を歩き廻り始めたのだ。
- 蜘蛛の踊り―――と一寸思ったが、踊るというほどはっきりした動作ではない、曲に合わせてどうこうと云うのではなく、何かこう、いらいらしたような、ギクシャクした足つきで、無闇とその辺りを歩き廻るのだ。
- ―――浮かれ出しやがった、と私は半ば呆れながら、可笑しがった。
- 幾分、不思議さも感じた。
- 牛や犬が、音楽―――人間の音楽にそそられることがあるとは聞いていたし、殊に犬の場合は、私自身実際に見たこともあるのだが、蜘蛛となると、一寸そのままには受け取りかね、私は疑わしい目つきを蜘蛛から離さなかった。
- 曲が終わったら彼はどうするか、そいつを見落とすまいと注視をつづけた。
- 曲が終わった。
- すると蜘蛛は、率然と云った様子で、静止した。
- それから、急に、例の音もないするするとした素ばしこい動作で、もとの壁の隅に姿を消した。
- それは何か、しまった、というような、少してれたような、こそこそ逃げ出すといったふうな様子だった。
- ―――だった、とはっきり云うのもおかしいが、こっちの受けた感じは、確かにそれに違いなかった。
- 蜘蛛類に聴覚があるのか無いのか私は知らない。
- ファーブルの「昆虫記」を読んだことがあるが、こんな疑問への答えがあったか無かったかも覚えていない。
- 音に対して我我の聴覚とは違う別な形の感覚を具えている、というようなことがあるのか無いのか。
- つまり私には何も判らぬのだが、この事実を偶然事と片づける根拠を持たぬ私は、その時一寸妙な感じを受けた。
- これは油断がならないぞ、先ずそんな感じだった。
- このことに関連して、私は、偶然蜘蛛をある期間閉じ込めたことのあるのを憶い出だす。
- 夏の頃、暑いうちはいくらか元気なのが例の私が、何かのことで空瓶が要って、適当と思われるのを一本取り出し、何気なくセンを取ると、中から一匹の蜘蛛が走り出て、物陰に消えた。
- 足から足まで一寸か一寸五分の、八畳の壁にいる奴とは比較にならぬ小型のだったが、色は、肉色で、体はほっそりしていた。
- 瓶から蜘蛛が出て来たので、私は一寸驚いた。
- 私は記憶を辿ってみた。
- これらの空き瓶は、春の初め、子供たちに云いつけて綺麗に洗わせ、中の水気を切るため一日ほど倒さにして置き、それからゴミやほこりの入るのを防ぐためセンをして、何かの空箱にまとめておいたものだ。
- 蜘蛛が入ったのは、その一日の間のことに違いない。
- 出口をふさがれた彼は、多分初めはなんとも思わなかったろう。
- やがて何日か経ち、空腹を感じ、餌を捜す気になって、そこで自分の陥っている状態のどんなものかをさとっただろう。
- あらゆる努力が、彼に脱走の不可能を知らしめた。
- やがて彼は、じたばたするのを止めた。
- 彼は唯、凝っと、機会の来るのを待った。
- そして半年――。
- 私がセンをとった時、蜘蛛は、実際に、間髪を容れず、という素速さで脱出した。
- それは、スタート・ラインで号砲を待つ者のみが有つ素早さだった。
- それからもう一度。
- 八畳の南側は緑で、その西はずれに便所がある。
- 男便所の窓が西に向って開かれ、用を足しながら、梅の木の間を通して、富士山を大きく眺めることが出来る。
- ある朝、その窓の二枚の硝子戸の間に、一匹の蜘蛛が閉じ込められているのを発見した。
- 昨夜のうちに、私か誰かが戸を開けたのだろう。
- 一枚の硝子にへばりついていた蜘蛛は、二枚の硝子板が重なることによって、幽閉されたのだ。
- 足から足三寸ほどの、八畳にいるのと同種類の奴だった。
- 硝子と硝子の間には彼の身体を圧迫せぬだけの余裕があっても、重なった戸のワクは彼の脱出を許すべき空隙を持たない。
- 私は、前の、空瓶の場合を直ぐ憶い出だした。
- 今度は一つ、彼の行末を見届けてやろう、そんな気を起こした。
- 私の家の者共に、その硝子戸を閉めるな、と云いつけた。
- 空瓶中の蜘蛛は、約半年間何も喰わず、粗雑な木のセンの、極めて僅かな空隙からする換気によって、生きていた。
- 今度のは、丸々と肥えた、一層大きな奴だ、こいつとの根気比べは長いぞ、と思った。
- 用便のたび眺める富士は、天候と時刻とによって身じまいをいろいろにする。
- 晴れた日中のその姿は平凡だ。
- 真夜中、冴え渡る月光の下に、鈍く音なく白く光る富士、未だ星の光が残る空に、頂近くはバラ色、胴体は暗紫色に輝く暁方の富士―――そういう富士山の肩を斜めに踏んまえた形で、蜘蛛は凝っとしているのだ。
- 彼はいつも凝っとしていた。
- 幽閉を見つけ出したその時から、彼のあがきを一度も見たことはなかった。
- 私が、根気負けの気味で「こら」と指先で硝子を弾くと、彼は、仕方ない、と云った調子で、僅かに身じろぎをする、それだけだった。
- 一と月ほど経て、彼のたいいくが幾分やせたことに気づいた。
- 「おい、便所の蜘蛛、やせてきたぜ」
- 「そうらしいです。
- 可哀そうに」
- 「蜘蛛の断食期間は、幾日ぐらいだろう」
- 「さあ」
- 妻は興味ない調子だ。
- つまらぬ物好き、蜘蛛こそ迷惑、といった調子しだ。
- 私は妻のその調子にどこか抵抗する気持ちで、
- 「とにかく、逃がさないでくれ」と云った。
- 更に半月経った。
- 明らかに蜘蛛は細くなってきた。
- そして、体色の灰色が幾分かあせたようだ。
- もう少しで二月になるというある日、それは、壁間の蜘蛛の散歩を見た何日かの後だったが、便所の方で、「あ」という妻の声がし、つづいて「逃げた」ときこえた。
- 相変らず横になってぼんやりしていた私は、蜘蛛を逃がしたな、と思ったが、それならそれでいいさ、という気持ちで黙っていた。
- ―――いつも便所掃除のときは、硝子戸を重ねたまま動かしたりして蜘蛛の遁走には気をつけていたのだが、今日はうっかり一枚だけに手をかけた、半分ほど引いて気がついたときは、もう及ばなかった。
- 蜘蛛の逃げ足の速いのには驚いた、まるで待ちかまえていたようだ―――そんな、云いわけ混りの妻の説明を、私は、うんうんときき流し、命冥加な奴さ、などとつぶやいた。
- 実のところ、蜘蛛を相手の根気くらべも大儀になっていたのだ。
- とにかく片がついた、どっちかと云えば、好い方へ片がついた、そんなふうに思った。
- 私がこの世に生まれたその時から、私と組んで二人三脚をつづけて来た「死」という奴、たのんだわけでもないのに四十八年間、黙って私と一緒に歩いて来た死というもの、そいつの相貌が、この頃何かしきりと気にかかる。
- どうも何だか、いやに横風なつらをしているのだ。
- そんな飛んでもない奴と、元来自分は道づれだったのだ、と身にしみて気づいたのは、はたち一寸前だったろう。
- つまり生を意識しはじめたわけだが、普通とくらべると遅いに違いない。
- のんびりしていたのだ。
- 二十三から四にかけて一年ばかり重病に倒れ、危うく彼奴の前に手を挙げかかったが、どうやら切り抜けた。
- それ以来、くみし易しと思った。
- もっとも、ひそかに思ったのだ。
- 大っぴらにそんな顔をしたら彼奴は怒るにきまっている。
- 怒らしたら損、という肚だ。
- 急に歩調を速めだしたりされては迷惑する。
- こういうことを仰々しく書くのは気が進まぬから端折るが、つまるところ、こっちは彼奴の行くところへどうしてもついて行かねばならない、じたばたしようとしまいと同じ―――このことは分明だ。
- 残るところは時間の問題だ。
- 時間と空間から脱出しようとする人間の努力、神でも絶対でもワラでも、手当たり次第つかもうとする努力、これほど切実で物悲しいものがあろうか。
- 一念万年、個中全、何とでも云うがいいが、観念の殿堂に過ぎなかろう。
- 何故諦めないのか、諦めてはいけないのか。
- だがしかし、諦め切れぬ人間が、次から次と積み上げた空中楼閣の、何と壮大なことだろう。
- そしてまた、何と微細セン巧を極めたことだろう。
- ―――天井板に隠現する蜘蛛や蠅を眺めながら、他に仕方もないから、そんなことをうつらうつらと考えたりする。
- また、虫のことだが、蚤の曲芸という見世物、あの大夫の仕込み方を、昔何かで読んだことがある。
- 蚤をつかまえて、小さな丸い硝子玉に入れる。
- 彼は得意の脚で跳ね廻る。
- だが、周囲は鉄壁だ。
- 散々跳ねた末、若しかしたら跳ねるということは間違っていたのじゃないかと思いつく。
- 試しにまた一つ跳ねて見る。
- やっぱり無駄だ、彼は諦めて音なしくなる。
- すると、仕込手である人間が、外から彼を脅かす。
- 本能的に彼は跳ねる。
- 駄目だ、逃げられない。
- 人間がまた脅かす、跳ねる、無駄だという蚤の自覚。
- この繰り返しで、蚤は、どんなことがあっても跳躍をせぬようになるという。
- そこで初めて芸を習い、舞台に立たされる。
- このことを、私は随分無慚な話と思ったので覚えている。
- 持って生まれたものを、手軽に変えて了う。
- 蚤にしてみれば、意識以前の、したがって疑問以前の行動を、一朝にして、われ誤てり、と痛感しなくてはならぬ、これほど無慚な理不尽さは少なかろう、と思った。
- 「実際ひどい話だ。
- どうしても駄目か、判った、という時の蚤の絶望感というものは―――想像がつくというかつかぬというか、一寸同情に値する。
- しかし、頭かくして尻かくさずという、元来どうも彼は馬鹿らしいから・・・それにしても、もう一度跳ねてみたらどうかね、たった一度でいい」
- 東京から見舞いがてら遊びにきた若い友人にそんなことをわたしは云った。
- 彼は笑いながら、
- 「蚤にとっちゃあ、もうこれでギリギリ絶対というところなんでしょう。
- 最後のもう一度を、彼としたらやって了ったんでしょう」
- 「そうかなア。残念だね」
- 私は残念という顔をした。
- 友人は笑って、こんなことを云い出した。
- 「丁度それと反対の話が、せんだって何かに出ていましたよ。
- 何とか蜂、何とか云う蜂なんですが、そいつの翅は、体重に比較して、飛ぶ力を持っていないんだそうです。
- まア、翅の面積とか、空気を博つ振動数とか、いろんなデータを調べた挙句、力学的に彼の飛行は不可能なんだそうです。
- それが、実際には平気で飛んでいる。
- つまり、彼は、自分が飛べないことを知らないから飛べる、と、こういうんです」
- 「なるほど、そういうことはありそうだ。―――いや、そいつはいい」
- 私は、この場合力学なるものの自己過信ということをちらと頭に浮かべもしたが、何よりも不可能を識らぬから可能というそのことだけで十分面白く、蚤の話しによる物憂さから幾分立直ることができたのだった。
- 神経痛やロイマチスの痛みは、あんまり揉んではいけないのだそうだが、痛みがさほどでない時には、揉ませると、そのままおさまってしまうことが多いので、私はよく妻や長女に揉ませる。
- しかし、痛みをこうじさせて了うと、もういけない。
- 触れば尚痛むからはたの者は、文字通り手のつけようが無い。
- 神経痛の方は無事で、肩の凝りだけだというとき、用の多い家人をつかまえて揉ませるのは、今の私に出来るゼイタクの一つだ。
- この頃では十六の長女が、背丈は母親と似たようになり、足袋も同じ文数をはき、力も出て来たので、多くこの方に揉ませる。
- 疎開以来田舎の荒仕事で粗雑になった妻の指先よりも、長女のそれの方がしなやかだから、よく効くようだ。
- それに長女は、左下に寝た私の右肩を揉みながら、私の身体を机代わりに本を開いて復習なんかするから、まるで、時間の損というのでもない。
- ときにはまたおしゃべりをする。
- 学校のこと、先生のこと、友人のこと―――たいてい平凡な話で、うんうんときいてやっていればすむ。
- が、時々何か質問をする。
- 先日も、何の連絡もないのに、宇宙は有限か、無限か、といきなりきかれて、私はうとうとしていたのを一寸こづかれた感じだった。
- 「さあ、そいつは判らないんだろう」
- 「学者でも?」
- 「うん、定説は無いんじゃないのかな。
- ―――それは、あんたより、お父さんの方が知りたいぐらいだよ」云い云い、私は近頃読んだある論文を思い出していた。
- 可視宇宙に於ける渦状星雲の数は、推定約一億で、それが平均二百万光年の距離を置いて散らばっている。
- その星雲の、今見られる最遠のもの、宇宙の辺境とも云うべき所にあるものは、地球からの距離約二億五千万光年、そして各星雲の直径は二万光年――そんなことが書いてあったようだ。
- そしてわれわれの太陽系は、約一億と云われる渦剰星雲のうちのある一つの、ささやかな一構成分子たるに過ぎない。
- 「宇宙の大」というようなことで、ある感傷に陥った経験が自分にもある、と思った。
- 中学上級生の頃だったと思う。
- 今、十六の長女が同じ段階に入っていると感ずると、何かいたわってやりたい思いに駆られるのだった。
- 「一光年というのを知っているかい?」ときく。
- 「ハイ、光が一年間に走る距離であります」と、わざと教室の答弁風に云う。
- 「よろしい。
- では、それは何キロですか」こちらも先生口調になる。
- 「さア」
- 「ちょっと揉むのをやめて、紙と鉛筆、計算をたのむ」
- ええと、光の速度は、一秒間に・・・などと云いながら、長女は掛算を重ねて十三桁か十四桁の数字を出し、うわ、零が紙からハミ出しちゃったと云った。
- そいつを二億五千万倍してくれ、というと、そんな天文学的数字、困る、という。
- 「だって、これ、天文学だぜ」
- 「あ、そうか。
- ―――何だか、ぼおッとして、悲しくなっちゃう」と長女は鉛筆を放した。
- 二人は暫く黙っていたが、やがて私が云い出す。
- 「でもね、数字の大きさに驚くことはないと思うよ、数学なんて、人間の発明品だもの、単位の決め方でどうにでもなる。
- 仮に一億光年ぐらいを単位にする、超光年とか云ってね、そうすれば、可視宇宙の半径は二超光年半か三超光年、二・五か三、何だそれだけかということになる。
- ―――反対に原始的な単位を使うとすると、零の数は、紙からハミ出すどころか、あんたが一年かかったって書き切れない」
- 「うん」と静かに答える。
- 「単位の置きどころということになるだろう。
- 有限なら、いくら零の数が多くたって、人間の頭の中にはいるよ。
- ところが、無限となると・・・」
- 神、という言葉がそこへ浮かんだので、ふと私は口をつぐんだ。
- 長女は、機械的に私の右肩を揉んでいる。
- 問題が自分に移された感じで、何かぶつぶつと私は頭の中でつぶやきつづけるのだった。
- ―――われわれの宇宙席次ともいうべきものは、いったいどこにあるのか。
- 時間と空間の、われわれはいったいどこにひっかかっているのだ。
- そいつをわれわれは自分自身で知ることが出来るのか出来ないのか。
- 知ったら、われわれはわれわれでなくなるのか。
- 蜘蛛は蚤や何とか蜂の場合を考える。
- 私が閉じ込めた蜘蛛は、二度共偶然によって脱出し得た。
- 来るか来ぬか判りもせぬ偶然を、静まり返って待ちつづけた蜘蛛、機会をのがさぬその素速さには、反感めいたものを感じながらも、見事だと思わされる。
- 蚤は馬鹿だ、腑抜けだ。
- 何とか蜂は、盲者蛇におじずの向う見ずだ。
- 鉄壁はすでに除かれているのに、自ら可能を放棄して疑わぬ蚤、信ずることによって不可能を可能にする蜂、われわれはそのどっちなのだろう。
- われわれと云わなくていい、私、私自身はどうだろう。
- 私としては、蜘蛛のような冷静な、不屈なやり方は出来ない。
- 出来ればいいとも思うが、性にあわぬという気持ちがある。
- 何がし蜂の向う見ずの自信には、とうてい及ばない。
- だがしかし、これは自身というものだろうか。
- 彼として無意識なら、そこに自信も何もないわけだ。
- 蜂にとっては自然なだけで、かれこれ云われることはないのだ。
- 馬鹿で腑抜けの蚤に、どこか私は似たところがあるかも知れない。
- 自由は、あるのだろうか。
- あらゆることは予定されているのか。
- 私の自由は、何ものかの筋書によるものなのか。
- すべてはまた、偶然なのか。
- 鉄壁はあるのかないのか。
- 私には判らない。
- 判るのは、いずれそのうち、死との二人三脚も終わる、ということだ。
- 私が蜘蛛や蚤や蜂を観るように、どこかから私の一挙一動を見ている奴があったらどうだろう。
- 更にまた、私が蜘蛛を閉じ込め、逃がしたように、私のあらゆる考えと行動とを規制している奴があったらどうだろう。
- あの蚤のように、私が誰かから無慚な思い知らされ方を受けているのだとしたらどうなのか。
- お前は実は飛べないのだ、と、私という蜂が誰かに云われることはないのか。
- そういう奴が元来あるのか、それとも、われわれがつくるのか、更にまた、われわれが成るのか、―――それを教えてくれるものはない。
- 蠅はうるさい。
- もう冬だから、陽盛りにしか出て来ないが、布団にあごまで埋めた私の顔まで遊び場にする。
- 蠅について大発見をした。
- 彼が頬にとまると、私は頬の肉を動かすか、首を一寸振るかして、これを追い立てる。
- 飛び立った彼は、直ぐ同じところに戻ってくる。
- また追う。
- 飛び立って、またとまる、これを三度繰り返すと、彼は諦めて、もう同じ場所には来ないのだ。
- これはどんな場合でも同じだ。
- 三度追われると、すっぱり気を変えてしまう、というのが、どの蠅の癖でもあるらしい。
- 「面白いからやってごらん」と私は家の者に云うのだが、「そうですか、面白いんですねえ」と口先だけで云いながら、誰もそんな実験をやろうとはしない。
- 忙しいのです、と無言の返答をしている。
- 勿論私は、強いはしない。
- だが、忙しいというのはどういうことなんだ、それはそんなに重大なことなのか、と肚の中でつぶやくこともないのではない。
- それからまた、私は、世にも珍しいことをやってのけたことがある。
- 額で一匹の蠅を捕まえたのだ。
- 額にとまった一匹の蠅、そいつを追おうというはっきりした気持ちでもなく、私は眉をぐっとつり上げた。
- すると、急に私の額で、騒ぎが起った。
- 私のその動作によって額に出来たしわが、蠅の足をしっかりとはさんでしまったのだ。
- 蠅は、何本か知らぬが、とにかく足で私の額につながれ、無駄に大げさに翅をぶんぶん云わせている。
- その狼狽のさまは手にとる如くだ。
- 「おい、誰か来てくれ」私は、眉を思い切り釣り上げ額にしわをよせたとぼけた顔のまま大声を出した。
- 中学一年生の長男が、何事かという顔でやってきた。
- 「おでこに蠅が居るだろう、とっておくれ」
- 「だって、とれませんよ、蠅叩きで叩いちゃいけないんでしょう?」
- 「手で、直ぐとれるよ、逃げられないんだから」
- 半身半疑の長男の指先が、難なく蠅をつかまえた。
- 「どうだ、エライだろう、おでこで蠅をつかまえるなんて、誰にだって出来やしない、空前絶後の事件かも知れないぞ」
- 「へえ、驚いたな」と長男は、自分の額にしわを寄せ、片手で額を撫でている。
- 「君なんかに出来るものか」私はニヤニヤしながら、片手に蠅を大事そうにつまみ片手で額を撫でている長男を見た。
- 彼は十三、大柄で健康そのものだ。
- ロクにしわなんかよりはしない。
- 私の額のしわは、もう深い。
- そして、額ばかりではない。
- 「なになに?どうしたの?」
- みんな次の部屋からやって来た。
- そして、長男の報告で、いっせいにゲラゲラ笑い出した。
- 「わ、面白いな」と七つの二女まで生意気に笑っている。
- みんなが気を揃えたように、それぞれの額を撫でるのを見ていた私が、
- 「もういい、あっちへ行け」と云った。
- 少し不機嫌になって来たのだ。
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